お疲れ様です。はらです。
デザインを本格的に始めて5年目になる30歳の男です。
趣味は映画鑑賞、読書、アイドル鑑賞です。

前回の記事『「黒い羊」MVを読む』に結構な反響があり、驚いています。

やはり皆このMVについて物凄く興味関心があるのだなーと、改めて実感しました。数多くの素晴らしい考察の中から僕の考察に興味を持って下さった皆さん、本当に有難うございます。

さて、前回の記事の公開から数日後、こんな内容のメールが届きました。

羊は、野生動物ではなく家畜かと思います。羊 = 家畜 であることが前提だとすれば、羊の群れを束ねる「羊飼い」という存在がいるのではないでしょうか?

なるほど、「羊飼い」。考えてもみませんでした。。。ということで今回はこの「羊飼い」について考えてみようと思います。

もし前回の記事をまだ読んでいないという方は、上にあるリンクから読んで頂くと今回の記事をより楽しめるかと思います。では、始めましょう。

「羊飼い」について考える①

頂いたメールには、更に「wikipediaによると、有名な羊飼いとして『モーセ』の名前が記述されています」と書いてありました。wikipediaに「羊飼い」っていうページがあるんですね。初めて知りました。なるほど。。。

モーセといえばファンにはおなじみ、「サイレントマジョリティー」の平手ですよね。

1stシングル 「サイレントマジョリティー」

また、wikipediaにはジャンヌ・ダルクの名前もあります。「人々を導いた女性」という面では今回の平手と重なる物があると思います。

更に「アベル」という人物も気になります。彼はアダムとイヴの息子で、人類最初の殺人の被害者と言われているみたいですね。今回のビデオの世界で平手にもたらされている「死」の重さを考えると、ちょっと強引かもしれませんが、これも結び付ける事が出来なくはなさそうです。

一つの見方としては、ベタですが「羊飼い」は平手であると言えそうですね。

「羊飼い」について考える②

でも、平手が導いたのはあくまでも「黒い羊」だけですよね。今回のビデオには他にもたくさんの白い羊が登場している訳ですし、そもそも平手も黒い羊です。

それら全ての羊を飼いならすことが出来るとすれば、メタ的な発想ですが、このMVを撮った新宮良平監督かもしれません。前回の記事で、冒頭のピアノは「この作品がフィクションであり、抽象的なイメージで物語を描いていくことの宣言」だと書きましたが、それと同時に「監督がこの作品の世界を掌握している」ことの宣言でもあると思うんです。

この世界は監督の一存でどうにでも出来るんですよね

前回「黒ずくめの人間」について書いたと思うんですが、他の考察やビデオを何回も観ているうちに「元々は他の登場人物だったんじゃないか」と思うようになってきました。

小林のシーンで歩いている黒ずくめの人間は、その少し前に登場するケンカの仲裁をしている赤いドレスの女性と頭の形が一緒なんです。マントの下から赤い布も見えるんですよね。

葬儀の受付の前にいると思われる黒ずくめの人間も、反対側から撮られた際には、普通の格好をした男の人になっているように見えます。

もしこの推測が合っているとすれば、(まあエキストラの使い回しと言ってしまえばそれまでなんですが、敢えて込み入った見方をするならば)登場人物の役割や生死を変えてしまう(→飼いならす)ことが出来るのは、この作品世界の神である監督くらいのものでしょう。

ちなみに

これは余談なんですが、菅井の父親が亡くなるシーンで映るこの「黒ずくめの人間」。当初はエキストラだと思っていました。

でもこれ、多分上村ですよね。髪型やスカートの柄等が一致するような気がします。

少々見えづらいですが。。。
スカートの柄が一致してますよね?

ちなみに彼女は、左側にある演説(指揮棒を振っているようにも見えます)が行われている場所がある方向から歩いて来ています。家族ぐるみで入信していた宗教から逃げ出した、とか。。。?また、もし仮にこのシーンでの上村に、監督が「死神」の役を与えていたとしたら、これはまた考えることが増えそうです。

「羊飼い」について考える③

また、これもメタでベタですが、作品やメンバーを好き勝手に扱い、解釈する(→飼いならす)僕たちファンも「羊飼い」かもしれません。

「もう森へ帰ろうか?」MVより

更にかなり邪推をしてしまうと、欅坂46にまつわる全てを、言い方は悪いですが「飼いならしている」のは、これまたメタでベタですが、秋元康氏じゃないかと思うんです。彼の前では、監督もファンも「飼いならされている羊」ですよね。でもそんな秋元氏も、他の関係性の中では「一匹の羊」になる場面がきっとあるはずなんです。

これらを踏まえると

明確に「羊飼い」と呼べる人物は、このビデオの中には居ないのではないでしょうか。

あの世界は、「飼い主が居ない羊たちがさまよっている世界」なのかもしれないですね。だから皆苦しんでいるし、迷っている。その中で「羊飼いのような役割」をする者も、それに救われる者も居る。そしてその外側には「作品を作る側」として羊を導く者も、「読み解く側」として羊を導く者も居て、それらを飼いならす羊飼いも居る。

この作品に触れる人間の全てが「羊」であり「羊飼い」であると言えるのではないかと思います。そして「お前は今、何色なんだ?」と、このビデオは問いかけているのかもしれません。まあ、ぜーーーんぶ深読みの深読みなんですが。。。

さて今回は、頂いたメールを受けて「羊飼いは居るのか?」ということについて考えてみました。自分一人では思いつきもしなかった観点でした。前回の記事を書いて良かった。正解の無い作品だからこそ、こういう風に意見を交えて、ああでもないこうでもないと考えを巡らせることが出来る。これは何物にも変えられない価値のある時間ですし、誰かが作った何かに触れることの意味や意義というのは、こういう所にあると思います。楽しかったです。

今後また「黒い羊」についての記事を書くかどうかは未定ですが、このビデオを観ること、そして考えることはまだまだ続けていこうと思います。また何かあれば、記事にするかもしれません。

ではでは、お疲れ様でした。ちなみに僕は、ゴリゴリの「白い羊」です。